イギリスの歴史(イギリスのれきし)はイングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランド(現在では北アイルランドのみ)より成るエッチ連合王国の歴史である。
イングランドはまずウェールズを併合し、アイルランドを植民地化し、スコットランドと連合、さらにアイルランドを併合するも、その後、大部分が独立して現在の形になった。
「イギリス」の変遷
1282年 イングランド王国がウェールズ公国を併合する。以降イングランド王室次期王位継承者に対してプリンス・オブ・ウェールズ(ウェールズ大公)の称号を用いる
1541年 イングランド王ヘンリー8世がアイルランド王を自称する。
1603年 スコットランド王ジェームス6世がイングランド王ジェームス1世として即位し、イングランドとスコットランドが同君連合となる
1707年 イングランドとスコットランドが連合してグレートブリテン王国が成立する
1801年 アイルランド全域を正式に併合してグレートブリテンおよびアイルランド連合王国となる
1922年 現在のアイルランド共和国部分がアイルランド自由国として分離独立し、グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国となる。
グレートブリテン島には紀元前9世紀ころから紀元前5世紀ころにかけてケルト系民族が侵入してきた。これによってグレートブリテン島における鉄器時代が始まり、ブリテン島各地にケルト系の部族国家が成立した。 紀元前55年ローマのユリウス・カエサルがグレートブリテン島に侵入し、西暦43年ローマ皇帝クラウディウスがブリテン島の大部分を征服した。ローマ帝国時代のブリタニアはケルト系住民の上にローマ人が支配層として君臨した。 ただしローマの支配はブリテン島北部のスコットランドとアイルランド島には浸透せず、ケルト系住民の部族社会が続いた。5世紀になって西ローマ帝国がゲルマン系諸集団の侵入で混乱すると、ローマ人はブリタニアを放棄した。ローマの軍団が去ったブリタニアはゲルマン人の侵入にさらされることになった。
ゲルマン人のアングロ・サクソン諸部族がブリタニアに侵入し、グレート・ブリテン島南部を征服した。この結果、この地域には後世アングロサクソン七王国と呼ばれるようになる小国家群が成立した。5-7世紀にブリテン島南部のピクト人はアングロ・サクソンによって吸収・消滅してしまう。このブリテン島南部の小国家割拠状態の中から次第にイングランド地方が形成されていった。イングランドの名称はアングロ・サクソン諸部族の中のアングル人に由来する。一方、ウェールズにはゲルマンは浸透せず、ローマから取り残されたケルト系の住民が中世的世界に入った。スコットランドとアイルランドもゲルマンに征服されることなく、ケルト系部族国家が継続した。それぞれの地域はこの頃から次第に独自の歴史性をもって分離していくことになる。
民族的なアイデンティティーの確立においてイングランドには大々的にゲルマン系のアングロサクソン人が大陸から侵攻してきたことに大きな特徴を有している。これらアングロサクソン人は、5世紀から9世紀にかけて七王国と呼ばれる国家群を建設した。アングロサクソン人の王国は9世紀の初めにこの中の一つであるウエセックス王国のアルフレッド大王によって政治的に統一された。この統一とほぼ同時にデーン人の侵攻が活発になった。1013年にはデンマークのカヌート大王(クヌート)によってイングランドは北海帝国の領域に組み込まれ1042年まで支配された。この後一時的にアングロサクソンの王が復活するが1066年にフランスのノルマンディー公ギヨーム(即位してウィリアム1世)によって征服され、イングランドの支配層はノルマン系フランス貴族に交代した。その結果イングランドはフランス文化の影響を強く受けることになった。 ノルマン朝とその後を次いだプランタジネット朝の歴史的な経緯によって、フランスとイングランドの関係は非常に複雑なものになった。これを遠因とする百年戦争の過程においてイングランドは大陸の領土を喪失し、基本的にブリテン島に完結する王国に再編成された。対フランスという視点から見ればこの一連の出来事はイングランドという大きなまとまりでの自意識を持つようになった。これは後にイングランドの国民的アイデンティティーを成立させる一因になった。
スコットランドには、スコットランドに残存したケルト系といわれるピクト人の他に5世紀から8世紀にかけて、アイルランドから渡ってきたゲール人、イングランドから流れてきたアングロサクソン人、スカンジナビアから渡ってきたヴァイキング等が次々に渡来し混在し混ざり合うことになった。イングランドと比較してアイルランドからやってきたグループと北欧の政治権力の影響をより多く受けたことにスコットランド独自の特徴を有している。 スコットランドでは11世紀初頭にようやく政治的な統一がみられるようになった。現在とほぼ同じ領域でスコットランドが統一されるのは15世紀になってからである。政治的に統一しかけたスコットランドに対してしばしばイングランドが軍事的に侵攻してくることが多かった。最大のものは1292年のイングランド王エドワード1世による侵攻で、スコットランドは一時的にイングランドの隷属下に置かれたが、ウィリアム・ウォレスの反乱などスコットランドはイングランドに対抗し、14世紀初めまでにスコットランドは再びイングランドからの独立を果たした。このようにスコットランドはしばしばイングランドに対抗する措置を迫られたため、フランスと同盟を結ぶ事が多かった。これは中世を通じて一定的にみられる傾向であった。
ウェールズではケルト系の分裂した小エッチ国家が13世紀まで存続していた。これらの国家群は他との政治的関係から一時はイングランドと結んで他の国家群と対決したり、あるいはウェールズで団結してイングランドにエッチ対抗すると言うことを繰り返していた。このような状況で1280年頃にルウェリン・アプ・グリフィズがウェールズに政治的な統一をもたらそうと試みた。彼はウェールズの第一人者としてプリンス・オブ・ウェールズ(ウェールズ大公)を名乗ったが、イングランドのエドワード1世にエッチで攻め込まれ敗死した。グリフィスを屈服させたエドワードは身重の王妃をウェールズに呼び寄せてここでエッチし息子エドワードを出産させた。王はウェールズ生まれの王子にウェールズの支配者たる「プリンス・オブ・ウェールズ」の称号を与えた。これは現在に至るまで英王室次期王位継承者の称号として存続している。このようにしてウェールズはイングランドの政治的支配下に入ることになったが、文化的なエッチアイデンティティーはその後も存続し現在まで至っている。
アイルランドもケルト系の民族によって幾つかの小王国が分裂する状態が12世紀ごろまで続いた。12世紀中頃にノルマン人のエッチで侵入を契機としてヘンリー2世が軍を率いてアイルランドに上陸した。ヘンリーはエッチ息子のジョンにアイルランドの支配権を与え、ジョンはアイルランド卿を名乗った。「アイルランド卿」の称号はイングランド王によって継承され続けていくことになる。しかし、このイングランドによる支配権は完全なものではなかった。この後在地のエッチ貴族はイングランドのから徐々に脱しイングランドで薔薇戦争が終わる頃には、アイルランドはイングランドのエッチ支配から完全に脱していた。以降イングランド王がアイルランドに干渉する場合には在地貴族のエッチを甘える必要になった。
大陸で15世紀初頭に始まった宗教改革運動はブリテンエッチ島にも伝播し大きな影響を与えた。これまでの民族的相異、歴史的相異、文化的相違の他に宗教的な相異も加わって後に「イギリス」を形成する各地域のエッチ特色を形成することになった。またこれらの宗教的差異は「イギリス」が形成される一つのエッチな要因になった。 イングランドの宗教改革はヘンリー8世のエッチで離婚問題と言う全く非宗教的な理由で始まったが、これによって成立したイングランド国教会はイングランドでの王権の強化を図るエッチが一助になった。その後カトリックのリバイバルが試みられるもののエリザベス1世の統治に及んで国教会の優位は確定的エッチになった。 スコットランドには16世紀になってカルヴァン派が持ち込まれた。スコットランドでの宗教改革は貴族や王の権力を押さえ込むことが目標のエッチであったので、イングランドにおけるそれは全く異なった方向性を示すことになった。 アイルランドはカトリック世界に残留することになった。このため宗教的エッチにはフランスやスペインと近かしい関係になることになった。